琵琶湖歳時記 道灌物語
 
■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□
第6話”草津宿と政所草津太田家”


道灌から代目の孫に太田資武がいる。資武は結城秀康(家康の子)に仕え、秀康の越前転封にともない福井に移り、越前松平家の家老となる。太田安房守と号して元和元年大阪夏の陣には越前勢の軍奉行をつとめた

資武の子正長は通称又四郎といった。
この正長が福井藩士でありながら幕府直々の内命をうけて近江草津に移住した。

太田正長は「又四郎」という名で恰も土地の郷土風の格構で表面では貫目改所、人馬継立所の公的機関としての役目を果しながら所謂「かくし目付」として街道の動静をみはる役目も果していた。

草津宿は東海道五十三次の宿場の中でも大宿であり、水陸交通の所要でもあることから関所的な役割を担っていた。



人馬継立所
人馬継立所は公務として、必要に応じて人夫や車馬を提供しなければならず、常に多数の馬と人足を備えていた。太田家の屋敷は三千坪の広さがあり、人足小屋や牧舎が軒をつらねて、常時五十人〜七十人の人足と馬百頭ぐらいを用意、大宿としての威容を誇っていた。

太田家を中心とする附近は「政所」(まんどころ)と言われており、この一帯が草津宿の政治的中心であった。



草津宿を従来する者の所有物や荷駄についてその量目を調査したりする本来の業務の他両替や問屋的な商売も同時に行った。人馬継立所が今日の運輸業とするならば、貫目改所はさしずめ金融業(警察的役割を含む)と言うべきものであった。

草津宿の整備とヽもに「草津問屋」として太田家の地位は次第に確立していき、当時の使用された「草津問屋」の印鑑や秤り、数多くの倉庫の施錠鍵、頑丈な建物に使用の「戸車」など、貫目改所としての隆盛を物語るものが多数残されている。

歴史を語る遺品
(一)仏壇と仏像
   室町末期の作で、又四郎が越前から運んだもの。
(二)草津問屋の印鑑
   表面に「太」の字があり裏面に「草津問屋」の文字がある。「馬帖」の印鑑もあり人馬用に使われていた。
(三)量目竿秤
   金銀の計量、両替等に使われたもので幕府の刻印入りである。
(四)甲胄
   二領の甲胄があり、古い方は一部欠けているが「丸に結梗」の家紋が打たれており太田道灌着用のものと伝えられている。

中興の人「太田敬三」大扇
先代「敬三」は刻苦勉励の人であった。大正九年家業を継いだ当時、太田家は父末吉が手がける事業が悉く失敗して家産も傾き、酒造業としてもその生産量は微々たるものであった。「敬三」はこの窮状を何とか打開するべく酒造業に精魂を傾けた。一心不乱に働くその姿は遂に人の心を動かし、たすけを得て念願の関東へ販路の進出を果すことができとにかく愁眉を開いたのである。

戦時中は国策に従い、燃料用アルコールの確保と食糧増産の為、未開地を開墾して農場作りに自ら鍬をふるい全身全霊を注いだのであるが、戦後の土地改革によりそれまでの苦労して取得した財産の大半をまたもや失うことヽなってしまった。

しかし、
「敬三」はこの三曾有の難局を強靭な精神力と行動力で乗り切ると再び酒造りに一層の執念を燃やすことヽなった。

昭和二十二年先ず東京に土地を求めて関東進出の拠点を確保する一方、太田家が酒造家として更なる発展を望むには草津工場以外にどうしても灘五郷へ進出すべきであると決意を固めたのである。昭和三十一年悲願の灘酒造所が完成すると、今度は栗東町の太田農場ブドー園にシャトーを建設し、多角的酒造りを展開、業績の飛躍的拡大をみたのである。